Search:


AdWiki Webring Site

Last Viewed:


HitTail.com
...
SELECT YOUR LANGUAGE:

ar | id | bg | ca | ceb | cs | da | de | et | en / / | es | eo | fr | gr | he | hr | it | ko | lt | hu | nl | ja | no | pl | pt | ru | ro | sk | sl | sr | fi | sv | te | tr | uk | zh

ワシントンD.C.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ワシントンD.C./ワシントン市
Washington, District of Columbia

ワシントンD.C.市街
市旗 市章
愛称: "DC"、"特別区(The District)"
標語: "すべてに正義(公平)を"
"Justitia Omnibus(Justice for All)"
位置
ワシントンD.C.の位置の位置図
ワシントンD.C.の位置
座標: 38°53′42.4″N, 77°02′12.0″W
歴史
首都移転 1800年
行政
アメリカ合衆国
  (連邦政府直轄地)
 市 ワシントンD.C./ワシントン市
市長 エイドリアン・フェンティ
民主党
地理
面積  
  市域 177.0 km2 (68.3 mi2)
    陸上   159.0 km2 (61.4 mi2)
    水面   18.0 km2 (6.9 mi2)
      水面面積比率  10.2%
標高 0-125 m (0-410 ft)
人口動態
人口 2000年現在)
  市域 572,059 人
    人口密度   3,597.9 人/km2 (9,316.9 人/mi2)
  都市圏 4,796,183 人
その他
等時帯 東部標準時 (UTC-5)
  夏時間 東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト: District of Columbia

ワシントンD.C.Washington, D.C.)は、アメリカ合衆国首都である。正式名称はワシントン・コロンビア特別区(ワシントン・コロンビアとくべつく、Washington, District of Columbia)という。ワシントン市という表記がなされることもある。同国東海岸ポトマック川河畔に位置し、グローバルに強大な政治的影響力のある世界都市である。

目次

[編集] 概要

"D.C." は "The District of Columbia"(コロンビア特別区)の略で、南アメリカコロンビア共和国と同様、アメリカ大陸の「発見」者クリストファー・コロンブスにちなんだ名である。日本のマスメディアなどでは、ワシントンD.C.のことを単に「ワシントン」と呼び、ワシントン州のことはワシントンD.C.との混同を避けるべく常に「州」を付して「ワシントン」と呼ぶのが一般的である。なお、漢字による当て字は華盛頓で、華府と略す。

コロンビア特別区は1790年7月16日に設立された。ワシントン市(The City of Washington)はコロンビア特別区内の独立した地方自治体であったが、1871年の連邦法により、この領域全体を統治する単一の政府が設立され、ワシントン市とコロンビア特別区が統合された。

ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。人口は572,059人(2000年国勢調査[1]であるが、労働時間帯には近郊からの通勤者により100万人を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、さらにはウェストバージニア州の極東部2郡をも含む首都圏は4,796,183人(2000年国勢調査)[2]の人口を抱え、アメリカ合衆国内で7番目に人口の多い都市圏である。北西約65kmにはワシントンD.C.より人口規模の大きい、メリーランド州の最大都市ボルチモア(人口651,154人、2000年国勢調査[3])が位置している。ボルチモアとワシントンD.C.の都市圏をあわせたボルチモア・ワシントン複合都市圏(正式名称: ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏[4])の人口は7,572,647人(2000年国勢調査)を数える。

アメリカ合衆国憲法1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国政府の三権の最高機関(大統領官邸である「ホワイトハウス」、連邦議会議事堂連邦最高裁判所)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の河畔にあるの木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所である。

172か国の大使館に加え、世界銀行国際通貨基金(IMF)、米州機構(OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関(PAHO)の本部も置かれている。労働組合、ロビー団体、職業組合など、各種団体の本部もある。

連邦議会がワシントンD.C.における最高権限を有しているので、同区の居住者は各州の居住者と比べ自治権を与えられていない。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を有しない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であったとすれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。

首都としての機能を果たすべく設計された、計画都市であるため、同じアメリカ合衆国の大都市であるニューヨークなどと比べると無機的な印象の街である[5]

[編集] 歴史

詳細はワシントンD.C.の歴史を参照

アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地となる地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた[6]ジェームズ・マディスンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した[7]。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった[8]

憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディスン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる。)[9]

ピエール・シャルル・ランファンによるワシントン市の計画図

1790年7月16日、合衆国首都設置法(The Residence Act)により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった[10]。当初の形は、合衆国憲法により認められていたとおり、一辺が10マイル(16km)のダイヤモンド型で、100平方マイル(260km2)であった。新首都建設のためメリーランド州バージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内には既に二つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市[11]と、1751年に設立されたジョージタウン[12])があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた[13](コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である。)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した[14]

1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた[15]。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった[16]

19世紀のフォード劇場。1865年リンカーン大統領暗殺の場となった。

米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした。議会議事堂財務省ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された[17]。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た[18]

1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた[19]。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた[20]。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km2)をバージニア州に返還することに同意した[19]。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は、頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された[21]

ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争の結果、合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した[22]。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた[23]。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた[24]

1871年のコロンビア特別区基本法 (the Organic Act of 1871) により、連邦議会は、特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した[25]。この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた[26]。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)[27]、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ[24]。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった[28]

特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌において、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第2次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した[29]。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した[30]

1961年アメリカ合衆国憲法修正第23条[31]により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えらえた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。

公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦警備隊とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった[32]

1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法(Home Rule Act)を制定し、特別区に公選制の市長議会を導入することとした[33]1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった[34]

1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期続けて務めた。しかし、1991年、3期目の任期中に、麻薬の使用によりFBIのおとり捜査で逮捕され、コカイン所持により6か月の懲役刑を受けた。この問題のためバリーは再選挙には出馬しなかった[35]

1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である[36]1994年、ケリーの任期が満了すると、マリオン・バリーが市長に返り咲いた[35]1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月からは現在のアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が市長を務めている[37]

1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた[35]。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした[38]。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された[39]

2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウス又は連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルバニア州シャンクスヴィル近くで墜落した[40][41]。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした[42]

[編集] 地理

[編集] 市域

ワシントンD.C.の航空写真。市街東部から西南西方向を望む。写真中央が連邦議会議事堂、右下が連邦最高裁判所、左下は連邦議会図書館。右上の細長い白い塔はワシントン記念塔。ホワイトハウスはその右手に位置するが写っていない。議事堂から右斜め上方へ延びる舗装道路(ペンシルバニア通り)の先にある。また、議事堂から記念塔を経てポトマック川に至る細長い緑地はナショナル・モールと呼ばれる。ペンタゴンは写真左上の川向こうに写っている。

ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル(177km2)の市域を有し、そのうち61.4平方マイル(159km2)が陸地、6.9平方マイル(18km2、10.16%)が水面である[43]。特別区は、当初100平方マイル(260km2)の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている[44]。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である[45]

合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった[46] 。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった[46]。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている[47]

都市伝説として伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない[48]。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた[46]。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである[49]。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する[50]

[編集] 自然

チェサピーク・オハイオ運河。ジョージタウン近くを通る。

アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する[51]。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである[52]。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ(Great Falls)がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた[53]

1965年リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法(the Clean Water Restoration Act)の必要性を訴える材料とした[54]。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った[55]。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている[56]。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている[57]

[編集] 気候

ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候(Cfa)であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均420mmも降雪量がある[58]。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下1°C(30°F)くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈なふぶきが2、3年ごとにワシントンD.C.を襲う。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である[58]。夏は高温多湿となる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均30°C前後(80°F台)である[59]。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。

ハリケーン熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来るころには勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている[60]

記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の41°C(106 °F)である。史上最低気温は1899年2月11日の零下26.1°C(-15°F)であり、これは1899年の記録的猛ふぶき(the Great Blizzard)の時のものである。32°C(90°F)を超える日数は平均36.7日であり、氷点下となる夜は平均64.4日である[58][59]

ワシントンD.C.の気象データ
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間
史上最高気温(°C) 26 29 34 35 37 39 41 41 40 36 30 26 41
平均最高気温(°C) 6 8 13 19 24 29 31 30 26 20 14 8 19
平均最低気温(°C) -3 -1 3 8 13 18 21 21 17 10 4 0 9
史上最低気温(°C) -26 -26 -16 -9 1 6 11 9 2 -3 -12 -25 -26
降水量(mm) 81.3 66 91.4 71.1 96.5 78.7 91.4 86.4 96.5 81.3 76.2 76.2 993.1
出典:The Weather Channel[61]

[編集] 町並み

[編集] 都市設計

ワシントンD.C.は四つの地区に分かれる。

ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットとともにアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式をもとに基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった[62]。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった[28]。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた[28]

夜のリンカーン記念館ワシントン記念塔、連邦議会議事堂

1899年に20階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律(the Heights of Buildings Act)を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート(6.1m)を加えた長さを超えないよう規制された[63]。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である[63]。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである[64]。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている[63]。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸であるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い[65]

[編集] 街路

ワシントンD.C.は四つの地区(quadrant)に不均等に分かれている。北西地区(Northwest)、北東地区(Northeast)、南東地区(Southeast)、南西地区(Southwest)である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている[66]。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている[66]。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルバニア通り(Pennsylvania Avenue)は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂をつないでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している[67]。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館[68]があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り(Massachusetts Avenue)の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り(Embassy Row)として知られている[69]

[編集] 建築

2007年、ホワイトハウスはアメリカ建築家協会(AIA)が選ぶ「アメリカ建築傑作選」で2位にランクされた。

ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち六つがワシントンD.C.にある[70]。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、トマス・ジェファーソン記念館、連邦議会議事堂、リンカーン記念館ベトナム戦争戦没者慰霊碑である。新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式や現代の建築様式が、これら六つの建物すべてに、またワシントンD.C.の他の著名な大建造物にも反映されている。大きな例外が、フランス第二帝政様式による建物で、アイゼンハワー行政府ビル(旧行政府ビル)やアメリカ議会図書館などがある[71]

ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトー様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、古典的装飾様式、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い[72]。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最も古い建物となっている[73]。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立されたジョージタウン大学は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式とゴシック・リヴァイヴァル建築が融合した建築が特徴である[71]

[編集] 人口統計

人口の推移[74]
人口 増減率
1800 8,144 -
1810 15,471 90.0%
1820 23,336 50.8%
1830 30,261 29.7%
1840 33,745 11.5%
1850 51,687 53.2%
1860 75,080 45.3%
1870 131,700 75.4%
1880 177,624 34.9%
1890 230,392 29.7%
1900 278,718 21.0%
1910 331,069 18.8%
1920 437,571 32.2%
1930 486,869 11.3%
1940 663,091 36.2%
1950 802,178 21.0%
1960 763,956 -4.8%
1970 756,510 -1.0%
1980 638,333 -15.6%
1990 606,900 -4.9%
2000 572,059 -5.7%
2007 588,292[75] 2.8%

[編集] 人口動態

2007年のアメリカ合衆国国勢調査局の推計によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は588,292人であり、2000年の国勢調査で572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年間の減少傾向からの反転である[75]。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている[76]。周辺のメリーランド州やバージニア州の郡を含むワシントン首都圏は、2007年の推計で約530万人の居住者を有し、アメリカで8番目に大きな都市圏である(2000年国勢調査時には約470万人、第7位)。ボルチモア及びその近郊も合わせたボルチモア・ワシントン複合都市圏(ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏)は、2007年の推計では約820万人(2000年国勢調査時には約750万人)を超える居住者人口を抱え、ニューヨークロサンゼルスシカゴに次ぐ、アメリカ合衆国内第4の広域都市圏である[77]

[編集] 人口構成

「友情の門」。チャイナタウンの中心にある。

2006年における人口の割合は、55.4%がアフリカ系アメリカ人(黒人)、34.5%がコーカサス系(白人)、8.2%がヒスパニック(人種は様々)、5.1%がその他(インディアン、アラスカ先住民、ハワイ先住民、南洋諸島先住民など)、3.4%がアジア系、1.5%が混血である[78]。黒人はワシントンD.C.で最も多くを占めるものの、郊外へ去る者が多いため、その人口は一貫して減少傾向にある。同時に、ワシントンD.C.で昔から黒人の居住地域であった多くの場所が高級住宅化していることもあり、白人の人口は一貫して増加傾向にある[79]。このことは、2000年と比べて、アフリカ系アメリカ人の人口が6.2%減少し、反対にコーカサス系は13.8%増加していることに表れている[78]。移民の主な出身地としては、エルサルバドルベトナムエチオピアなどがあり、エルサルバドル人はマウント・プレザント近辺に集まっている[80]

2000年の国勢調査によって、ワシントンD.C.の成人のうち推計3万3000人が自らをゲイレズビアン又はバイセクシュアルであると考えていることが明らかになった。これは市の成人人口の8.1%に当たる[81]。このようにLGBTの人口は相当大きく、また政治的風土もリベラルであるが、連邦議会における反対論も原因して、同性結婚はワシントンD.C.の法律では認められていない[82]。しかし、家庭内パートナーシップ法(Domestic partnership law)によって、同性のカップルも、他の法域で認められているシビル・ユニオン(civil union)と似た法的取扱いを受けることができる[82]

2007年の報告によって、ワシントンD.C.の居住者の3分の1が機能的非識字(仕事や日常生活上の読み書き能力が不十分である状態)であることが分かった。これに対し、全国における割合は5分の1である。英語に習熟していない移民も、その一つの原因であると考えられている[83]。2005年に行われた研究では、ワシントンD.C.の5歳以上の居住者のうち85.16%が家で英語のみを使用しており、8.78%がスペイン語を使用していることが分かった。フランス語がそれに次いで1.35%である[84]。機能的文盲率の高さとは対照的に、ワシントンD.C.の居住者のうち45%が少なくとも4年制大学の学位を持っており、国内で4番目に高い割合である[85]

また、2000年のデータによると、半数以上の居住者が自分をキリスト教徒であると考えている。28%がカトリック、6.8%が南部バプテスト連盟、1.3%が正教会(ギリシャ正教)又は東方諸教会、21.8%が他のプロテスタント教派である。イスラム教徒は人口の10.6%、ユダヤ教徒は4.5%、26.8%は無宗教である[86]

[編集] 犯罪

ワシントンD.C.における殺人発生件数の推移(1986-2005年)

1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人の都」(murder capital)として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州ニューオーリンズとしばしば肩を並べていた[87]。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件であったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した[88]。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した[89]

多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域であるワシントンD.C.北西地区(高級住宅街であるジョージタウンなど)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある[90]

ワシントンD.C.における殺人事件発生地点の分布(2004-2008年)。NE(北東)とSE(南東)に圧倒的に多いことがわかる。

特に危険なのは市南東部のアナコスティア地区(Anacostia)である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している[91]1950年代までは白人の中流階級の住宅地であったが、州間高速道路の発達により人口が郊外へ流出、住民の層が大きく変わり、治安が著しく悪化した。現在、この地区の黒人人口率は92%に達する。また、市の北東部も治安の悪い地域である(右図参照)。市境を越え、メリーランド州側にも治安の良くないエリアが広がっている。

2008年6月26日、連邦最高裁判所は、ワシントンD.C.対ヘラー事件において、ワシントンD.C.が1976年に行った拳銃の所持禁止は、アメリカ合衆国憲法修正第2条で定められた銃所持の権利を侵すものであると判示した[92]。もっとも、この判決は、どのような形での銃規制も一律に禁止するものではない。銃器の登録制を定める法律は依然有効であり、ワシントンD.C.による殺傷能力の高い攻撃用武器の禁止も有効である[93]

[編集] 経済

ジョージ・ワシントン大学のプロフェッサーズ・ゲート。同大学はワシントンD.C.の民間で最大の雇用を有する。

ワシントンD.C.では、経済が多角的に成長しつつあり、専門的職業やホワイトカラーのサービス業の割合が増加している[94]。ワシントンD.C.の2007年における州民総生産は938億ドルであり、これは50州と比較すると35位に位置づけられる[95]。2008年3月の時点で、連邦政府がワシントンD.C.における雇用の27%を占めている[96]。このために、ワシントンD.C.は全国的な経済の停滞の影響を受けていないと考えられている。連邦政府の活動は景気後退期においても継続するからである[97]。もっとも、2007年1月時点で、ワシントン地域の連邦職員は、全米の連邦職員数の14%を占めるにすぎない[98]。法律事務所、独立契約就業者(インディペンデント・コントラクター。軍事関係と非軍事の双方がある。)、非営利団体、ロビー団体、全国労働組合、職業団体といった多くの組織が、連邦政府に近接した場所を求めて、ワシントンD.C.内又はその近郊に本部を置いている[67]。2008年5月現在、ワシントン首都圏の失業率は3.5%であり、国内40の大都市圏の中で最も低い。これは、同時期の全国平均失業率の5.2%と比べても低い[99]

ワシントンD.C.では政府関連の産業、特に教育、金融、科学研究の分野が成長している。非政府関連としては、ジョージ・ワシントン大学ジョージタウン大学、ワシントン病院センター、ハワード大学、連邦住宅抵当公庫が市内における雇用主体の上位5位である[100]。ワシントンに本拠を置くフォーチュン1000企業(フォーチュン誌が選ぶ上位1000企業)は5社あり、そのうち2社はフォーチュン500にも入っている[101]。ワシントンD.C.は、国際不動産投資においてはロンドンニューヨークパリに次ぐ先進的地位を得ている[102]。2006年、「エクスパンション・マガジン」誌は、D.C.を国内で最もビジネスの拡大に適した10の地域の一つに挙げた[103]。ワシントンは、商業オフィスの面積に関しては、ニューヨーク、シカゴに次いでアメリカで第3に大きい商業地域を有している[104]

ワシントンD.C.では、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の努力が実りつつあり、特にローガン・サークル、ショー、コロンビアハイツ、Uストリート地帯、14番ストリート地帯の近隣で著しい[105]。いくつかの地域では、1990年代末の地下鉄(メトロ)グリーンラインの敷設により開発が進んだ。地下鉄網によって、これらの地域は商業地域と結ばれた[106]。2008年3月にコロンビアハイツにできた新しいショッピングモールは、ワシントンD.C.で40年ぶりの新しい大規模ショッピングセンターとなった[107]。多くの都市と同様、ジェントリフィケーションはワシントンD.C.の経済を活性化させているが、その利益が均等に配分されているとはいえず、貧困層にとっては直接の救いになっていない[105]。例えば、ワシントンD.C.の失業率は市の中で大きく異なっている。2008年5月において、北西地区北部の裕福な第3地区では失業率が1.7%であったのに対し、南東地区の貧しい第8地区では17.2%であった[108]。2005年において、アメリカの50州と比較すると、ワシントンD.C.は1人当たり収入が高いものの、貧困率もまた高く、全住民における経済的格差を際だたせている[43]

[編集] 文化

[編集] 史跡・博物館

ナショナル・モールは、ワシントンD.C.の中心にある、広大で開放されたエリアである。モールの中心にはワシントン記念塔がある。また、モールの中には、リフレクティング・プールの東端にリンカーン記念館や第二次世界大戦記念碑があるほか、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑もある[109]国立公文書館には、アメリカ史にとって重要な何千もの文書が収蔵されており、その中にアメリカ独立宣言アメリカ合衆国憲法権利章典の原本も含まれている[110]

モールのすぐ南、タイダル・ベイスン(ポトマック川に隣接する池)は、桜並木で彩られている。この桜は日本から贈られたものである。タイダル・ベイスンの周りには、フランクリン・ルーズベルト記念公園、トマス・ジェファーソン記念館、D.C.戦争記念碑がある[111]

スミソニアン協会は、1846年に連邦議会によって創設された教育目的の基金で、ワシントンD.C.内にある国立の博物館・美術館のほとんどを管理している。アメリカ合衆国政府がスミソニアン協会に一部資金を提供しており、収蔵品を入場料無料で公開しているのはこのためである[112]。スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが、ナショナル・モール内にある国立自然史博物館である[113]。このほかに、モール内にあるスミソニアンの博物館・美術館としては、国立航空宇宙博物館国立アフリカ美術館国立アメリカ歴史博物館国立アメリカ・インディアン博物館アーサー・M・サックラー・ギャラリーフリーア美術館(サックラー・ギャラリーとフリーア・ギャラリーはいずれもアジアの美術・文化に焦点を当てている)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭芸術産業館スミソニアン協会本部(「キャッスル」とも呼ばれる)がある[114]

スミソニアン・アメリカ美術館(正式には国立アメリカ美術館National Museum of American Art)と国立肖像画美術館National Portrait Gallery)は、ドナルド・レイノルズ・センターという、チャイナタウン近くの同じ建物に入っている[115]。レイノルズ・センターは旧特許庁ビルとも呼ばれている[116]。レンウィック・ギャラリー(Renwick Gallery)は、正式にはスミソニアン・アメリカ美術館の一部だが、ホワイトハウス近くの分館にある。その他のスミソニアン博物館・美術館としては、南東地区のアナコスティア博物館、ユニオン駅近くの国立郵便博物館、ウッドリー公園内の国立動物園がある。

ナショナル・ギャラリー東館。現代美術を収蔵する。

ナショナル・ギャラリーは、ナショナル・モール内の連邦議会議事堂近くにあるが、スミソニアン協会のものではない。完全にアメリカ合衆国政府が所有しており、そのためこれも入場料が無料となっている。ギャラリーの西館では、19世紀のアメリカ、ヨーロッパ美術の収蔵品にスポットが当てられている[117]。東館は、建築家のイオ・ミン・ペイによって設計されたもので、現代美術を取り扱っている[118]。スミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館はよくナショナル・ギャラリーと間違われるが、実際は完全に別の組織である。ジュディシャリー・スクエア近くのナショナル・ビルディング博物館(National Building Museum)は連邦議会が創設したもので、その時々の特別展を行っている。

ワシントンD.C.には私設の美術館も多く、重要