ヴァイマル共和政
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- ドイツ国
- Deutsches Reich
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1919年 - 1933年
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国旗 国章 - 国歌 : ドイツの歌

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公用語 ドイツ語 首都 ベルリン - 大統領
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1919年2月11日 - 1925年4月26日 フリードリヒ・エーベルト 1925年4月26日 - 1934年8月2日 パウル・フォン・ヒンデンブルク - 首相(国家宰相)
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1919年2月13日 - 1919年6月20日 フィリップ・シャイデマン(初代) 1933年1月30日 - 1934年8月19日 アドルフ・ヒトラー(最後) - 面積
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1925年 468,787km² - 人口
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1925年 62,411,000人 - 変遷
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ヴィルヘルム2世退位 1918年11月9日 ヴァイマル憲法制定 1919年8月11日 全権委任法成立 1933年3月23日 アドルフ・ヒトラー、総統に就任。 1934年8月19日
通貨 パピエルマルク(1919年~1923年)
レンテンマルク(1923年~1924年)
ライヒスマルク(1924年~1933年)時間帯 UTC +1 (DST: +1)
ヴァイマル共和政(独:Weimarer Republik ヴァイマラー・レプブリーク)とは、1919年に発足して1933年に事実上崩壊した戦間期ドイツの政治体制。1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。ヴァイマル共和国、ワイマール共和政、ワイマール共和国などとも訳される。
正式な国号は、社会民主党らが提案した「ドイツ共和国」が拒否されたため、帝政ドイツ時代と同じく「Deutsches Reich(ドイツ国)」が用いられていた。そのため、この時代をドイツ国の共和政時代とも表現できる。なお首都もドイツ帝国時代と同じくベルリンであり、ヴァイマルが首都であったわけではない。
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[編集] 沿革
[編集] 成立
第一次世界大戦末期に始まったドイツ革命によって、ドイツ帝国は崩壊・敗戦へと追い込まれた。帝政崩壊後の中心勢力となったドイツ社会民主党は、共和制に基づく新政府樹立を果たした。その一方で、議会制民主主義の枠組みを尊重した社会民主党は、これ以上の革命の急進化を望まず、スパルタクス団(ドイツ共産党)の蜂起を義勇軍を用いて武力鎮圧した。スパルタクス団の中心人物であったローザ・ルクセンブルクや、カール・リープクネヒトはこの際に惨殺され、ドイツ革命は幕をおろすことになった。
そして1919年、ヴァイマルにおける国民議会でヴァイマル憲法(WRV:Weimarer Reichsverfassung)が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。
[編集] 復興の遅れ
しかし、共和国政府の権力基盤は不安定であった。上のような経緯があったために急進的左派勢力と敵対する一方で、屈辱的なヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力からも激しい批判を受け、一部の軍人はカップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感を高めさせた。賠償額が決定された1921年の段階では、政府は諸外国の要求にできる限り応じる「履行政策」を採ったが、1922年の後半になると履行政策は放棄され、賠償に含まれていた石炭引き渡しが遅滞し始めた。これに対してイギリスの反対を押し切ってフランス、ベルギーが実力行使に出て、1923年にルール地方が軍事占領された。
ルール占領は、ドイツ最大の工業地帯が経済的にドイツから切り離されることを意味していた。これによってドイツは石炭の輸出国から輸入国へと転落し、外貨準備の多くが失われた。政府はルール地方の住民にサボタージュを通じた抵抗を勧めたが、ルール住民への経済支援はドイツ財政上の重い負担となり、既に大戦中よりインフレが進行していたドイツ経済に致命的な打撃を与えた。インフレは絶望的に加速し、空前絶後の物価高騰が市民生活を破壊した。一部の急進的な右派勢力は、ルール地方でフランス兵士への攻撃や輸送手段の妨害などといった武力抵抗を行い処刑され、のちのナチス政権において伝説化された。こうした中、ミュンヘンではナチス党首のアドルフ・ヒトラーがミュンヘン一揆を起こした。
| ドイツの歴史 |
|---|
| 先史時代 |
| ゲルマン人 |
| 民族移動時代 |
| フランク王国 |
| 中世 |
| 東フランク王国 |
| ドイツ王国 |
| 近代 |
| ドイツ国 |
| 第二次世界大戦後 |
| 現在 |
[編集] 相対的安定期
こうしたドイツの混乱は、アメリカの望むところではなかった。第一次世界大戦を経て債務国から債権国となっていたアメリカにとって、ヨーロッパの政情不安は自国経済にとっても不利益である。また、ドイツにおける左派勢力が再度革命を狙い、ソ連と連携しないとも限らない。そのため、1924年にアメリカはドーズ案を提示して、ドイツの賠償金支払い問題に道筋をつけ、ヨーロッパ全体の安定を図った。これ以降、アメリカ資本がドイツに流入し、ドイツ経済は回復の兆しを見せた。1925年にはシュトレーゼマン外相の尽力もあり、いわゆるロカルノ条約を締結、ヨーロッパにおける安全保障体制を確認した。翌年には国際連盟に加盟し、国際社会への復帰を果たしていった。
[編集] 世界恐慌と共和政の崩壊
完全比例代表制により小党濫立の機能麻痺に陥ったため政権が安定せず、フリードリヒ・エーベルト大統領のあとを継いだ、ヒンデンブルク政権では政治への不信が進んだ。そして1929年の世界大恐慌により、その煽りを受けてドイツでは国民のほとんどが失業者という空前の経済危機に陥った。当時のミュラー内閣は失業保険料の値上げを施行しようとしたが、閣僚の一人の強行な反対により与党も政策に不同意となり、ミュラーは政策を撤回することになる[1]。政治の不安定さから有効な打開策を打ち出せず、大統領が強権を発動して内閣を入れ替えるなど、議会制も半ば形骸化してきた。そこへ、民主政治を無責任なものとして否定するナチスが、既成政党による政治への不信を募らせた大衆の支持を受けて台頭してくることとなった。そしてナチスが政権に就き、ヒトラーの全権委任法が制定されたことで、ヴァイマル憲法は事実上その効力を失った。
現在のボン基本法は、不信任は建設的でなければならないなどヴァイマル憲法の反省の上に立っている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 坂井榮八郎著 『ドイツ史10講』 第8節 第一次世界大戦とワイマル共和国 P.182 ISBN 4004308267 (林健太郎著 『林健太郎著作集』山川出版社 第4巻 所収 『ワイマル共和国』 ISBN 9784634670501 を基にした記述)
[編集] 関連書籍
- 林健太郎 『両大戦間の世界』、講談社〈講談社学術文庫〉、1976年。
[編集] 外部リンク











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