日本映画
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| 日本映画 |
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| 作品一覧 |
| 監督一覧 |
| 年度別日本公開映画 |
| 1930年代 |
| 30 31 32 33 34 |
| 35 36 37 38 39 |
| 1940年代 |
| 40 41 42 43 44 |
| 45 46 47 48 49 |
| 1950年代 |
| 50 51 52 53 54 |
| 55 56 57 58 59 |
| 1960年代 |
| 60 61 62 63 64 |
| 65 66 67 68 69 |
| 1970年代 |
| 70 71 72 73 74 |
| 75 76 77 78 79 |
| 1980年代 |
| 80 81 82 83 84 |
| 85 86 87 88 89 |
| 1990年代 |
| 90 91 92 93 94 |
| 95 96 97 98 99 |
| 2000年代 |
| 00 01 02 03 04 |
| 05 06 07 08 09 |
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日本映画(にほんえいが)とは、一般的に日本国内の映画館などで公開される事を前提として日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画とも呼称される。また、時代によって活動写真、キネマ、シネマ等とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 定義
日本映画をジャンルとして明確に定義する事は困難であり、「日本人監督によって、日本人の俳優を用いて、日本で撮影し、日本で上映する日本語の映画」という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している[1]。このため、高嶺剛が撮影した琉球語の映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画[2]、崔洋一などの在日韓国人監督による映画など、全ての条件を満たしていなくても日本映画と認知されるものもある。
外国映画(洋画)に対する日本の映画という意味での呼称は存在するが、市場のボーダレス化等、製作、配給の両面において多国籍化が一般化している今日において、ジャンルとしての厳密な定義はほぼ無意味なものとなりつつある。
[編集] 概要
トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。
[編集] 背景
日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は世界でも稀な高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史と伝統を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの大衆演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも伺う事ができる。
また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い[3]。
純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、海外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』やウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『乱』などがそれにあたる[4]。
[編集] 歴史
[編集] サイレント時代
日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはエジソンのキネトスコープによるもので、リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映はその後、1897年2月に稲畑勝太郎によって大坂で行われるのが初となる。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。
その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された[5]。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。
1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門店を設置した。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。
1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた『忠臣蔵』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画でも欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている。
1912年、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な制作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島、京都二条城西櫓下の2箇所に撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を制作した。
ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫が1917年に制作した『大尉の娘』ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。
一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、1917年に帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。帰山はその中で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。
その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活、大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹が松竹キネマ合名会社を設立し制作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスターシステムを採用し、『路上の霊魂』の英百合子や『虞美人草』の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
この純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を制作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地、京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による『村の花嫁』(1928年)や『伊豆の踊子』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、『大学は出たけれど』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。
こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『霧の港』(1923年)、『血と霊』(1923年)、『狂恋の女師匠』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。
他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の『日輪』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『狂った一頁』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『十字路』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。
時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は『雄呂血』(1925年)で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による『丹下左膳』や、市川右太衛門の『旗本退屈男』、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。
[編集] 戦前の黄金時代
映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。
ミナ・トーキーを使用した小山内薫による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の『大尉の娘』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式のイーストフォン・トーキーによる東條政生の『戻橋』が公開されたが、この方式のトーキー映画は一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『ふるさと』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用した形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の『マダムと女房』(1931年)であった。
資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り[6]、1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。
また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。
こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『愛染かつら』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。
トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては内田吐夢[7]や熊谷久虎[8]、松竹を代表する監督としては島津保次郎[9]、野村浩将[10]、清水宏[11]などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『祗園の姉妹』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。
1930年に設立されたPCLは1933年より映画制作業界への参入を表明した。黒澤明や本多猪四郎、瀧口修造、井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の『河向ふの青春』(1933年)、『兄いもうと』(1936年)や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、石田民三の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年、小林一三などの働きにより「写真化学研究所」、京都の大沢商会の映画スタジオである「J.Oスタヂオ」、阪急資本による配給会社「東宝映画配給」などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。
1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が制作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で制作された『新しき土』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。
[編集] 戦時下の映画
第二次世界大戦による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年には年間500本[12]を超える映画を制作していた日本は1945年には僅か26本の制作となっており、その影響が伺える。また、1939年に成立した映画法により、制作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、制作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。
さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年に永田雅一の主導による企業合併に巻き込まれ、大日本映画となり日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオの閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。
当然、戦争を主題とした映画が主として制作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア映画祭で入賞を果たした。吉村公三郎が制作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、敵軍への警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、日本軍の真珠湾攻撃を見事に再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼んだ。
厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を制作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。
また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が制作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年に最終決戦を呼びかけるために制作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、日本の敗戦となりお蔵入りとなっている。
[編集] 占領地での日本映画
占領地下における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。
[編集] 台湾
日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に制作がなされたのは1921年で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人李松峰により『誰之過』が制作された。
日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、枝正義郎の『哀の曲』(1919年)、田坂具隆の『阿里山の侠児』(1927年)、張雲鶴の『血痕』(1929年)、安藤太郎の『義人呉鳳』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。
しかし、現地人による映画制作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。
[編集] 朝鮮
1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に制作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本の新派に強い影響を受けた作風は独立後も続き、政府政策による日本主義の追放が叫ばれた後も新派の影響は払拭される事無く、現代に続いている。日本政府は当初、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みた[13]が、自身の手による映画制作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。
1926年に羅雲奎が制作した[14]『アリラン』は民族主義の高揚における、重要な役割を果たした。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が制作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって制作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。
日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を制作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎[15]の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。
1945年、植民地支配が終わると共に自国映画制作が再開され、崔寅奎の『自由万歳』(1946年)を皮切りに反日映画のラッシュが続いた。その後、韓国においては1998年まで日本映画は公式には一切上映されなかった。
[編集] 満州
日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画制作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が制作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。
1942年ごろより、自由な映画制作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・制作された。
1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光男などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。
[編集] 上海
上海では1910年代より中国映画の制作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。
川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で制作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。
1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画制作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。
[編集] インドネシア
インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に制作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が制作されるなどした。
有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで制作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された[16]。
[編集] アメリカ占領下時代
1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本統治が開始された。日本で制作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ制作がなされ[17]、完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた[18]。
また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画制作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追求と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。
戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。
CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された制作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の制作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。
また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数制作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。
[編集] 第二黄金時代
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が制作されるようになった。国際映画際において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。
GHQによって制限されていた戦争映画が制作されはじめ、関川秀雄の『きけ わだつみのこえ』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』や『太平洋の鷲』といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして犯すべかざるとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。
映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『7人の侍』もヴェネツィア国際映画祭を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。
こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。
[編集] 東映
新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ江原真二郎、中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、梅宮辰夫、三田佳子、千葉真一、大原麗子らがデビュー。今井正監督『米』『純愛物語』(1957年)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』(宮崎駿がアニメ界に入るきっかけの一つとなった作品と言われる)公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。
[編集] 東宝
森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)などの秀作やヒット作も生み出した。また東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などの傑作にして大ヒット作を連発。だが、莫大な制作費をかける面もあって、1959年、黒澤プロダクション発足する。その後も東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には、ゴジラシリーズがスタートし、1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。
[編集] 松竹
大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)を筆頭に、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件 (映画)』(1959年 - 1962年)ではヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞など、海外で評価を集めた作品も手がけた。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などの名作を連発し、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、そして「日本映画の最高傑作」とも評される『東京物語』(1953年)などを発表した。
[編集] 日活
1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を制作していた。五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作·配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督『幕末太陽伝』(1958年)などのカルト作品も残している。
[編集] 大映
1950年代から1960年代前半にかけて長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子そして市川雷蔵と、日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川雷蔵主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。
- このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に制作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。
[編集] 1960年代
1960年に日本映画史上で最高制作本数となる547本を制作し、ピークを迎えた。その殆どは大手6社によるプログラムピクチャーで、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数は1958年の11億強を最高に、ゆるやかに下降し、1963年には半分以下の5億人強となった。
この背景には1953年より登場したテレビの急速な普及がある。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年の東京オリンピックでその勢いは加速した。1961年に新東宝が制作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に制作停止となった。
同時に、中平康、鈴木清順、増村保造、蔵原惟繕、石井輝男、岡本喜八、今村昌平、大島渚、松本俊夫、吉田喜重、篠田正浩、山下耕作、深作欣二、勅使河原宏といった個性的で多種多様な監督が新人として登場した時代でもあった。
- 東映
観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子(現・富司純子)らを擁して仁侠物ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場・飛車角』(1963年)といわれ、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く高倉健の演技が絶賛された。『昭和残侠伝』、『網走番外地』、『緋牡丹博徒』といった任侠モノシリーズは人気を博し、1972年頃まで制作された。
- 東宝
東宝では社長シリーズに続き、古沢憲吾による植木等主演の無責任シリーズ、日本一の男シリーズなどを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した。また、加山雄三主演の若大将シリーズでは松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。
他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『











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