第二次世界大戦
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| 第二次世界大戦 | ||
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| 戦争:第二次世界大戦 | ||
| 年月日:1939年9月1日から1945年9月2日 | ||
| 場所:主にヨーロッパ・アジア太平洋 | ||
| 結果:連合国の勝利 | ||
| 交戦勢力 | ||
| 連合国 など |
枢軸国 など |
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| 指揮官 | ||
| 損害 | ||
| 死者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説あり) |
死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説あり) |
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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)より後を指すことが多い。
目次 |
[編集] 概要
大日本帝国、ナチス・ドイツ、イタリア王国などによって構成される枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国などが構成する連合国の間の戦争。ヨーロッパでは、1939年9月1日早朝(CEST)、ナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、イギリス・フランスがドイツに対し宣戦布告をしたことにより始まった。アジアおよび太平洋では1937年7月7日の蘆溝橋事件から日中間が事実上の戦争状態になっていたが、1941年12月8日(JST)に日本が当時アメリカの自治領であったハワイの真珠湾を攻撃したこと並びにイギリス領マレーのコタ・バルに対する上陸作戦を開始したことにより日本、アメリカ合衆国が参戦した。同年12月9日には中華民国が正式に宣戦布告し、さらに12月11日にはドイツ・イタリアがアメリカに対し宣戦布告をしたことによって戦争は世界規模のものとなった。
初期は枢軸国側が優勢に駒を進め、ドイツ軍が一時的にヨーロッパ大陸諸国を占領。1940年6月にはパリを占領、フランスを降伏させた。1941年にドイツは独ソ不可侵条約を破棄してウクライナなどに侵入し、独ソ戦が始まった。日本は当初、阿部信行内閣において、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし大戦への不介入方針を掲げたが、阿部内閣総辞職後、松岡洋右らの親独派が中心となって日独伊三国軍事同盟を結んだことによって完全に枢軸国側に立つことになった。つづいて日ソ中立条約によってソ連も含めた四国同盟を模索したが、独ソ戦の開始によってその構想は画餅に帰し、ソ連は連合国側に立って参戦することとなった。1941年12月に、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。1942年中盤までは、欧州・太平洋両戦線共に枢軸国が有利であったが、以降は連合国側が優勢に転じ、1943年1月にスターリングラードでドイツ第6軍が降伏し、9月にアメリカ・イギリスの連合軍が北アフリカに上陸したことでイタリアが降伏。1945年5月にアメリカ・ソ連・イギリス軍のベルリン占領などによりドイツが降伏。同年8月には日本の長崎・広島にアメリカによって原子爆弾が投下され、更にはヤルタ会談に基づき、ソ連が日ソ中立条約を破棄・参戦したことで日本が降伏。ポツダム宣言の受諾、日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。
[編集] 参戦国
枢軸国の中核となったのはナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア王国の3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国である。大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。詳細は第二次世界大戦の参戦国を参照のこと。
[編集] 背景
詳細は第二次世界大戦の背景を参照
[編集] ヴェルサイユ体制と世界恐慌
ヨーロッパでは、1919年に第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしこれらの領域には多数のドイツ系住民が居住しており、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1922年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。
アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできなかった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[1]。
[編集] ファシズムの台頭
ファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922年、ファシスト党を率いるベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは1935年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが元となってイタリアは1937年に国際連盟を脱退した。
ドイツでは1933年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。
日本は米英との協調外交を指向していたが、満洲および内モンゴルの支配権を巡り次第に対立するようになる。日本は昭和金融恐慌以後の苦境からの脱出を図り、円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟を脱退した。満洲事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争(支那事変)が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。
[編集] 宥和政策とポーランド問題
英仏では、ナチス・ドイツの軍備拡張政策に対して、第一次世界大戦で受けた膨大な損害の反動から国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、宥和政策を取ることに終始していた。ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月、手始めにドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。
次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定めた。英仏との間ではヒトラーによる強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。
しかしヒトラーの要求はこれにとどまらず、1938年10月にはヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつけた。英仏にとってミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってはミュンヘン会談での成功は更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。1939年、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、反共のナチス・ドイツとは相容れないであろうソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。ポーランド回廊に関する要求を頑として拒否し続けるポーランド政府に対して、ヒトラーは武力による問題解決を決断、1939年9月1日、ドイツ軍へポーランドへの進攻を指示した。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した[2]。
[編集] 経過(欧州・北アフリカ)
欧州・北アフリカにおける大戦の経緯は、1939年にドイツがポーランドへ侵攻したことにはじまる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増していき、1941年には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツやイタリアの枢軸国の勢いが徐々に収まっていき、1943年には連合国が優勢になり、ヨーロッパの枢軸国が衰退した。1944年には連合国の勢いが更に増し、1945年には追い込まれたヒトラーが自殺し、ヨーロッパの枢軸国が次々と降伏して欧州・北アフリカにおける戦争は終結した。
[編集] 1939年
9月1日の早朝に、ドイツ陸軍の戦車と機械化部隊、戦闘機、急降下爆撃機などを主体とする機動部隊約150万人と5個軍によるポーランドに対する侵攻(ポーランド侵攻)が行われ[3]、これを受けてイギリスとフランスは、2週間前に結んだポーランドとの相互援助条約に基づき9月3日にドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することとなった。
これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソビエト連邦軍もポーランドを東方から侵攻したが、ポーランドとの相互援助条約が存在するにもかかわらず、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランスとイギリスは宣戦布告には至っていない。これに味をしめたソビエト連邦は続いてポーランドと同じく隣国になるフィンランドに侵略を開始した(冬戦争)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。
総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍は、ドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1か月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。 同様にソ連軍によるポーランドの占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害されたのを始め、1939年から1941年にかけて180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。
フランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていた。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始しており、反共産主義という点で一致していたイギリスとフランスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。
11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、ドイツ軍内部の反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。
[編集] 1940年
この年の4月に、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーを突如侵攻し(北欧侵攻)まもなく占領した。しかし、この作戦遂行を通じて、海軍国でもある両国に比べ脆弱なドイツ海軍は多数の艦艇を失った。
同時期にソ連はレニングラード防衛を理由に隣国のフィンランドを侵略して冬戦争を引き起こし、フィンランドはカレリア地方をソ連に割譲してソビエト連邦と講和した。
また、ソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答をまたずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。
西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといったいわゆるベネルクス諸国に侵攻(オランダにおける戦い)、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。
まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、外国からの侵略を防ぐ楯となるものとしてフランス軍民から大きな期待を持たれていたフランス国境に築かれた巨大要塞・マジノ線を迂回し、アルデンヌ地方の森を突破してフランス東部を電撃戦にて瞬く間に制圧した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。
ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたフランス・イギリス軍を救うためにイギリスはダイナモ作戦を展開し、6月4日には34万人の英仏軍救出作戦を完了した。この際にヒトラーが、救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜と多くの兵器を廃棄したものの精鋭部隊を救出することができた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
その後ドイツ軍は首都であるパリを目指す。敗色が濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日には首都のパリを全面的に放棄した。このため、14日には戦禍を受けておらずほぼ無傷のパリにドイツ軍は入城した。その後の22日、フランス軍はパリ近郊のコンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。[4]なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後に、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。
このような動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。[5]
また、ドイツによる対フランス戦の末期の7月10日、枢軸国の一員でドイツの盟友であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。そして、北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したが、参戦の準備がきちんとなされないまま性急に参戦したことなどから、どちらも反撃にあい逆に侵攻されてしまった。
また、7月にはイギリス海軍H部隊がフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍の艦船を、ドイツ側の戦力になることを防ぐことを目的に攻撃し大きな被害を与えた(カタパルト作戦)。この時期のフランス領アルジェリアのフランス海軍の艦船はヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦船を破壊し多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスでさえイギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがこれは失敗に終わった。
ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、当面の最大の敵であるイギリス本土への上陸を目指し、7月頃よりイギリス本土上陸作戦である「アシカ作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。なお、この頃イギリス政府は、ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ撤退する準備を開始するとともに、ドイツ軍による市街地爆撃の激化に対応し学童疎開を本格化させる。
ドイツ空軍の爆撃機による昼夜を問わない連日の爆撃に、ウィンストン・チャーチル首相に率いられたイギリス空軍とイギリス国民は国家を挙げて必死に抵抗し、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時本格的な実用化がなされたばかりのレーダーなどを駆使し、当時世界最強といわれたものの、護衛戦闘機の航続距離が短いために、爆撃機に対する十分な護衛ができないドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、あわせてドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが被害の大きい昼間の爆撃も中止するなど、事実上イギリスが勝利を収める。
[編集] 1941年
イギリス軍は自らの植民地であるイベリア半島先端のジブラルタルと、北アフリカのエジプトにあるアレキサンドリアを東西の拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[6]を確保して枢軸国軍に対する侵攻を企画していた。このような動きに対してドイツ軍は、イギリス軍との戦いに劣勢であったイタリア軍の支援のために、ユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻するとともに、クレタ島の戦いにおいてイギリス軍に勝利し、同島を制圧した。ジブラルタルへの攻撃をドイツは計画したが中立国であったスペインはこれを認めようとはしなかった。[7]
その後、1940年9月に伊軍は北アフリカにおける連合軍諸国の影響力の低下に乗じてリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍に撃退され逆にリビアに攻め込まれてしまった。これに対しドイツのエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入して2月にトリポリに上陸する。その後は北アフリカのイギリス、フランスの植民地に対し次々に侵攻(クルセーダー作戦)し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を破りトブルク要塞を包囲しつつエジプト国境に迫った。
6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。ソ連のポーランド侵攻、フィンランド侵攻などの行動により、距離をおいていた連合国側は独ソ戦の始まりによってソ連を連合国の側に受け入れることを決定し、武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。
これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、ノモンハンの戦いにおける事実上の敗北以来対ソ戦に対して慎重である上、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は、南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報により日本が対ソ戦を展開しないことを知ったソ連は、4月に日本との間で日ソ中立条約を結び、その結果、日本軍とその傘下の満州国軍に対抗するために極東に置いた軍の一部を対ドイツ戦に振り分けることができ、これがその後の対ドイツ戦に大きな影響を与えることとなった。
しかし、情報部からドイツ軍の国境部における動きに対する警告が繰り返されたにもかかわらず、スターリンはこれらの情報はドイツとソ連が戦争の口火を切ることを目指したイギリスから意図的に流された誤情報であると考えて、直接的にドイツ軍の侵攻に備えることをしなかった。そのために年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ねドイツ軍に首都・モスクワの近郊にまで迫られてしまう。
また、この年の現地時間12月7日に起きた真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦し(大東亜戦争の勃発)、それを受けて12月11日にドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、事実上の同盟国であるイギリスなどの働きかけを受けて、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦した。
日本と中国(国民党および中国共産党)の戦いである支那事変以外は平静を保っていたアジア太平洋地域においても、イギリスやオランダ、アメリカなどの列強を巻き込んだ戦いが始まり、ヨーロッパ戦線にも5大国の一端を担うアメリカが参戦したことにより、名実ともに世界大戦となった。なお、これに先がける8月にはアメリカとイギリスが大西洋憲章を発表していた。
[編集] 1942年
この頃ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートがイギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断をねらい、北大西洋付近を中心に多くの連合国の艦船を沈めた他、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸やカリブ海沿岸、インド洋のアフリカ沿岸にまで度々その姿を見せ連合国の艦船に攻撃を加えるなど大きな脅威を与えた。しかし、その後アメリカ、イギリス両海軍が航空機や艦艇によるUボート対策を強化したために、逆に多くのUボートが沈められることとなり、その勢いは急速に削がれることとなる。
また、前年始まった対ソ戦線(東部戦線)では総崩れとなったソ連軍を相手に怒涛の進撃を見せていたものの、自身が想像していなかったほどの勝利により戦線が伸びきったことや、例年より早い冬将軍の到来もあり、前線における補給に問題が続出したドイツ軍を中心とする枢軸国軍は、ブラウ作戦中の6月に起こったヴォルガ川西岸に広がるスターリングラード[8]を巡るスターリングラード攻防戦で、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者(と4万人を超える民間人の死者)を出す壮絶な地上戦を行った結果、地の利と数に勝るソビエト軍に対し歴史的な敗北を喫する。
この大敗北の余波もあり、対ソビエト戦線において、ソビエト連邦の首都のモスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始めることになる。またこの頃、北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が快進撃を続けていたものの、7月から行われたエル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍などの連合軍に対する敗北など、北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転しつつあった。
これらの各方面における相次ぐ敗北により、同盟国としてイタリア軍はいるものの頼りなく、事実上一国のみでヨーロッパ戦線において連合諸国軍と戦うドイツは自らの攻勢の限界を見ることとなり、この頃より、対ソビエト戦や北アフリカ戦での連合国軍に対するドイツの勢いが徐々に収まってゆく。
また、この年の7月から、1933年の選挙での勝利による政権取得以降、国民の支持を元にユダヤ人迫害政策を進めていたナチス党率いるドイツ政府による、ポーランドやユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアなどのドイツ軍の占領域内のユダヤ人ゲットー住民に対する、アウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への移送と、ガス室などを使った大量殺戮が始まるなど、ドイツ政府によるユダヤ人絶滅計画である「ホロコースト」の実行が本格化することになる。
ドイツ政府によるユダヤ人への大量殺戮は、ドイツの敗色が濃くなりドイツ全土が連合国に占領される直前の1945年初頭まで継続的に行われた。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にもシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者や政治犯など数万人も含まれる)の死者は数百万人にわたると言われている。
[編集] 1943年
この頃ドイツ軍は、二次ルジェフの戦い以降、ソ連軍に対し完全に劣勢に陥っていた東部前線のクルスクを巡る戦いにおいて持てる予備兵力の大半を使い果たし敗北を喫した。前年からの相次ぐ敗北により装備も兵力も消耗し切り完全に疲弊したドイツ軍は、東部戦線ではこの後二度と攻勢に廻ることはなかった。[9]
連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピア戦争の結果植民地としたエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のベニート・ムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。
逮捕されたムッソリーニの後任として、国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。しかし、逮捕された後に新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。
このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残しており、この事は戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献する結果を生んだ。
またドイツ軍とイギリス、アメリカ、自由フランス軍などの連合国軍が対峙していた北アフリカ戦線では、この頃より勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が主導権を握る。また、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかずに残存していたフランス軍を率い、イギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心に対独抗戦を指導した。
この様に連合国がヨーロッパ戦線において完全に優勢になったことを受け、この年には、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、自由フランス、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の枢軸国の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。
[編集] 1944年
この年の4月にソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。ポーランドのワルシャワでは1944年8月にソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。
一方で、すでにイタリアへの上陸を成功させたものの、フランスへの再上陸による西部戦線の構築をきっかけとした本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合国軍は、この年の6月6日に、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、ドイツ軍に占領されている西ヨーロッパ戦線の中核である北フランスのノルマンディー地方に対して、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を行い、多数の死傷者を出す激戦の末見事に上陸を成功させた結果、1940年6月のダンケルクからの撤退以降約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。この上陸とほぼ同時にイタリアではローマが解放された。
連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放された。なお、この際にドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物だけでなく、パリの市街地そのものが大きな被害を受けることはなかった。その後にドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。











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